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【るふNo.138】「地獄って何処?」「みんなの祈り」「塔婆とはなあに?」 平成9年1月1日発行
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地獄って何処?
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| みなさんは、地獄や浄土(極楽)というものがどこにあるのかご存じですか。 宇宙の果てにあるのでしょうか。それとも死後の世界にあるのでしょうか。 実際のところ、わたしは宇宙の果てに行ったこともないですし、死んだこともありませんから、そこがどんな世界であるのかわかりません。 しかし、地獄や浄土は身近なところにあるものです。 昔、あるところに立派なお侍がいました。そのお侍はある疑問で頭の中がいっぱいでした。それはこの世に地獄や極楽が本当にあるのだろうかという疑問でした。そんなとき、町から少し離れたある森の中にこれまた立派なお坊さんが修行しておられると云う噂を聞き、とるものもとりあえず、その森へ馬を走らせました。 そして日も墓れようとしたとき、やっとそのお坊さんに巡り会えたのです。 お侍は早速質問をしました。 「どうか、私の疑問に答えてください。そうでないと夜もろくろく眠れません。その疑問というのは、この世に地獄や極楽があるのか、それとも無いのか、もしあるのならば一体どういうところなのでしょうか。」と云いました。するとそのお坊さんは、 「はっはっは、お前さんは、そんな立派な身なりをしてそんな簡単なこともわからないのか。そんなことのためにわざわざここまでやって来たのか。はっはっはっ。」 これを聞いたお侍は頭にカーッと血がのぼり腰にあった刀を抜いてお坊さんに斬りかかろうと振り上げました。 その時、サッとお坊さんが侍に向かって指をさしてこう云いました。 「それが地獄じゃ。」 斬りかかろうとしていたお侍はハッと我に返りまさに今、自分の心が地獄に堕ちていたことに気づいたのとともに今まで悩んでいたこともいっぺんにはれたのです。 すると、お坊さんは「それが極楽じゃ。」と云いました。 この物語からわかるように、自分の心の中に地獄や極楽があることは確かなことではないでしょうか。 日蓮聖人はこのような言葉を残されています。 「浄土といい穢土というも土に二つの隔てなし。ただ我らが心の善悪によると見えたり。」 これは、浄土という浄い世界も、穢土という穢れ(けがれ)た世界も別々にどこかにあるのではなく、わたしたちの心が善の心になったときこの世界は浄土になり、逆に悪の心になったとき、この世界は穢れた世界になると云うことです。 |
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みんなの祈り
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| 昭和の名僧と呼ばれる人たちの中で、先年亡くなられた「藤井日達」という方がおられます。この方の創始された「日本山妙法寺大僧伽」という教団は、太鼓をたたきながら「南無妙法蓮華経」と唱えて世界中を行脚し、世界平和を祈念するという、独自の宗教スタイルをもって平和運動を展開し、世界の平和運動家に多大な影響をおよぼしました。 創始者「藤井日達老師」は、若い頃単身インドに渡り、各地で修行を続ける中で、インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーと出会いました。 若い二人は意気投合して、それ以来、寝食を共にして修行を重ねるのですが、共に修行する中で、日達老師は、ガンジーの非暴力主義は、自分の信仰する法華経の教えに通 じることを感じ、ガンジーに「南無妙法蓮華経」と唱えることの尊さを教えました。 ガンジーは自分の非暴力思想が法華経の教えに通じることを知って、以来「南無妙法蓮華経」と唱えるようになったのです。このことは世間ではあまり知られていない事実です。 では一体、ガンジーの非暴力主義と日達老師の世界平和運動に通じる法華経の教えとは何なのでしょうか。 それは、「自分の幸福を願うならば、まず世界中の人々の幸福を願いなさい。世界中の人々が幸せにならなければ、本当の自分の幸福もありえません」「今私達は人間としてこの世に生を受け、生きているのですが、皆全てこの世で仏になる為の修行をしているお方であり、全ての人はやがて修行を成就して仏様になる尊い存在なのです。」という二点にあると思います。 私達人間は、今自分が生きていく為の世俗よりの祈りは行っても、見知らぬ人の幸福を願って祈ることなどほとんどないといってもいいでしょう。勿論、自分の安泰があってこそ人の為にも働けるし、力にもなれるのですからそれらを否定するわけではありません。また現代のような個人主義の発達した文明社会では、ガンジーや日達老師のような行動は異例として受けとられるかもしれません。 しかし、私達は何の為に生まれてくるのか、何故生きているのかを考えますと、先に述べました法華経の教えが輝きを増し、彼らの運動はいくつの輝きに照らされて、誠に尊い孝行として映るのではないでしょうか。全ての人が彼らのように出来なくても、それぞれが力の及ぶ限り、皆の及ぶ限り、皆の幸福を願い一人でも多くの人が、自分の存在の尊さに早く気付いてもらえるように祈り行うことが大切であると思います。祈ることは手をあわせてじっと念じることではありません。「祈りとは実践なり」と申しますが、人の振る舞いにこそ、その人の心の中の祈りがあらわれます。 すなわち、実践こそ至高の祈りであると心得て頂きたいと思います。 |
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塔婆とはなあに?
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| 塔婆のことを「卒塔婆(そとうば)」ともいうように、これはインドのストゥーパという音を漢字に当てはめたもので、塔と略されています。 お釈迦様がお亡くなりになったとき、遺体は火葬にされ、八つの王国に分けられました。それぞれの王は自分の国に塔を建てて、お釈迦様の御遺骨(仏舎利)を安置して供養しました。これがストゥーパ(塔)とよばれるものです。 時代がたつにつれ、最初は土饅頭の型だったものが、インドから中国へと伝わるにつれて、材質や様式も変化していきレンガや石、さらに木造の塔も発達して、基壇も一重から一三重のものまで造られるようになりました。日本の五重塔は、この例にならったものです。 仏教では、この宇宙の万物は地(かたい性質)、水(湿の性質)、火(熱の性質)、風(動の性質)、空(それらを互いに存在させているもの)の五つの構成要素からなっていると説いており、これを五大、あるいは五輪といっています。この五輪を、方、円、三角、半月、宝珠の型で象徴させてつみ上けたものが現在の板塔婆の型です。 また五輪のそれぞれに膝・腹・胸・面・頂をあてはめ図のように仏の姿でもあり、また人の姿でもあるといわれます。 亡き人に塔婆を立てることは、死者が仏と合体した姿を象徴して供養する意味になります。 法華経には「法華経のあるところは、樹の下でも、山でも、谷でも、野原でもどこでも塔を建てて供養しなさい、そこは諸仏の道場であり、仏様のおられるところだ」と塔を建てて供養することが説かれています。 |
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るふ太くんの算数
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| 人の寿命は長そうで短いものです。 一日を秒に換算すると・・・・3600秒×24時間=86400秒 一年だと・・・・・・・・・・86400×365=3153万6千秒 80歳まで生きたとすると・・3153万6千秒×80=25億2288万秒 しかし、その3分の1は寝ているから実質、人の寿命は17億秒ぐらいのものです。1秒1秒大切に。 あなたのご先祖様は何人ですか。少なそうで多いものです。 お父さん、お母さんが1人づつ、 おじいさん、おばあさんが2人づつ、 曾祖父さん、曾祖母さんが、4人づつ、 10代さかのぼると・・・1024人のご先祖様 20代さかのぼると・・・104万8576人のご先祖様 30代さかのぼると・・・10億7374万1824人のご先祖様 その後は自分で計算してください。 こんなにたくさんのご先祖様がおられます。このうち一人が欠けても今の自分はいないのです。やっぱりご先祖様はありがたいですね。 |
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