るふへ戻る書籍のご紹介へ戻るホームへ戻る
 
【るふNo.139】「ガイシャはホトケ??」「みんなの親」「神仏物語、もうこりた」 平成9年3月1日発行
 
ガイシャはホトケ??
「警部!ガイシャ(被害者)の妻が見つかりました。」
「なに!何処でだ。」
「××湾にうちあげられました。夫と同様で絞殺され既にホトケで・・・。」
「うーん。やはり殺されていたか。」
この様なシーンをテレビの刑事ドラマなどでよく耳にします。
また、一般の家庭でも法事の時などに、
「うちのホトケさんは本当にお酒が好きでしてねえ。」といった具合に「ホトケ」という言葉を使います。この様に便われている「ホトケ」とは亡くなられた方を意味しています。
人は皆必ず平等に死を迎えます。亡くなられた人を思う心や人情から誰もが「死後も安らかにいて欲しい」と願う、その気持ちから「死んだ人=ホトケ(仏)」と、この様に俗的な使われ方をするようになったと思われます。
では人は死ねば「ホトケになれる(成仏)」のでしょうか。私はまだ死んではいませんし、死後の世界のことはわかりませんが、お釈迦さま(仏さま)は「妙法蓮華経」というお経の中で「其の中(世界)の衆生(私たち)は悉く是れ我が子なり」と説かれています。これは、私たちすべてのものは善人であれ、悪人であれ、仏の子であるという意味です。ですから、子である以上、仏になる可能性を持っているのです。
しかし、その事を死後の世界にだけ期待するのはどうかと思います。確かに生きることは辛く、現実は苦しいことばかりかもしれません。だからといって現実から目を背き、今この世を大事にせず、死後の世界に期待して、死後の安泰を願い、何もしないで成仏を求めることは現実逃避以外の何物でもありません。
ですから、現実の苦しみから目をそらさず、与えられた命のある限り精一杯生きることが大切なのです。
みんなの親
私たち人間は、いや、人間にかかわらず、生きているものすべては親をもって生まれてきます。そして親というものは、自分たちのことよりも子供のことを第一に考え、自分たちの幸せよりも子の幸せを第一に考えるものです。
お経の中に、子というものは、生まれてくると母の懐を寝床となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情けを命となす。父母というものは、もし飢えている時であるならば、自分のふくんでいる物を吐いてまで子供に与え、寒さに苦しんでいるときは、自分の着ている物をすべて脱いでまで子供に暖をとらす。だから父母の恩というものは量 り知れないものがあると説かれています。
しかし、悲しいことに、最近になって子を車の中に置き去りにしてパチンコに行ったり、駅のロッカールームに捨てたりする親もいることは避けられない事実であります。こういったことを耳にしますと何やらいたたまれない気持ちがいたしますが、それはさておき、実は私たちすべてのものには、平等な目でいつも見守って下さっている親がいます。それは仏さまです。もちろん、実際に手を取って助けてはいただけません。しかし、柔和な心で今までの自分を振り返ってみますと、どれだけ助けていただいていたかを知ることが出来るでしょう。
例えば、昔の徒弟制度では、弟子が来たからといって手を取り足を取って教えることはなかったといいます。「親方のやり方を盗み見て、やってみたがうまくいかない。こうしたらどうだろうか。やっぱりだめだ・・・と自分でいろいろ工夫しながら一人前になっていく。」時には殴られたり、挫折しそうになったりする事もあるでしょう。しかし、そんな厳しい修業時代があったからこそまた立派な親方が生まれてくるのです。修業時代にはそれに気づくことが出来ないかも知れませんが、後になってみるとすべての苦労が自分の糧となっていたことに気づくものです。そしてその苦労、厳しさこそが仏さまの親心なのです。
これを自分の人生に押し当てて考えて下さい。人それぞれいろいろな逆境や無駄 だと思っていたことが実は自分を成長させてくれているものです。それに本当に気づいたとき、今までひとりぼっちだと思っていた自分が仏さまという親に見守られていることを感じるのではないでしょうか。
神仏物語
ある人里離れた山の奥深くにある社の前で
・・・カランカラン、パンパン!!
「神さま、どうか、我が一族が戦いに勝てますように。そして大きな富が得られますように。」
・・・ギッ、ギーッ!!
「静かにせんか。騒々しい。」
そこには一枚のぼろをまとった老人が立っていた。
「まっ、まさか!あなたはこの山の神さまであられますか?」
「何じゃそのカミというものは、儂はその様な物は聞いた事もないが?」
「神さまとはそれぞれの土地を守ったり、人々を守って下さっている大変に有り難い方々でございます。」
「フム、有り難いとな・・では聞くが、そなたは自分の一族郎党や土地家屋を守りはせぬ か?」
「いえ、常々懸命に守ってござる。」
「そうであろう。では、人と神とはどう違うのじゃ。」
「・・・・・?」
「おぬしらは自分の土地や財産を守るために一生懸命になり、喜怒哀楽を繰り返しておる。そしていつのまにやら年をとって死んでいくのじゃ。もったいないとは思わぬ か。人にはそれぞれ命というものを授かっておる。金銀財宝にはかえがたいものじゃ。そんな大切な物を持っているにもかかわらず、目に見える物ばかりにとらわれて本当の自分の姿を忘れてしまっておる。自分さえよければいいという心を捨てたとき、もっと大きなすばらしいものを拾うことになるじゃろう。よく肝に命じておくのじゃぞ。」
気が付けばいつのまにやら眠ってしまったようであった。見わたせば昨晩の老人の姿はなかった。ただ、社の中には釈迦牟尼佛の像が朝日の中、かすかな微笑みをたたえて立っていたのだった。そして心の中に朝日より光かがやくものがあることに気づいた。
もうこりた
仏教用語に「もうこりた」という言葉があります。あの仕事はつらかったからもうこりたという、もう懲りたではありません。漢字にすると「忘己利他」(己を忘れて他を利する)になります。いわゆる、自分の利害損得は捨てて、他人のために尽くすということです。これは仏道修行の基本でもあり、最も大切なことでもあります。
先日、私がバスに乗っておりますと私の座っているちょうど目の前に一人のおばあさんが乗って参りました。私は早速、「忘己利他」を実行しようとそのおばあさんに席を譲ったのです。すると、そのおばあさんは何も言わずに私の譲った席に座りました。しかし、その時、私の心の中に感謝の言葉を発しないおばあさんに不快な気持ちが芽生えたのです。
「せっかく席を譲ってあげたのに・・・。」
ところが、すぐに「ハッ!」と気付いたことがありました。それは自分がおばあさんのために席を譲ってあげたと思っていたことが、実は自分がお礼を言って欲しいという心から席を譲っていたということです。これでは本当の「忘己利他」にはなりません。
簡単そうでありますが、いざ実行してみるとなるとなかなか難しいものです。これを自然に行えることが私たちの心の中にある仏、すなわち仏性(仏となる性質)を目覚めさせることになるのです。いわゆるこれが仏と成ること「成仏」するということなのです。
「もうこりた」と言わずに心がけて参りましょう。
るふ太くんの幸せ探しゲーム
「今日あった幸せを数えてみて下さい。何個ありましたか?」
一つも無かった人は今日一日を振り返ってみて下さい。
太陽の光を浴びられる。
蛇口をひねると水が出る。
スイッチを入れるとテレビがつく。
三食のご飯が食べられる。
雨水をしのげる家がある。
気持ちのよい排便がある。
いい匂いをかぐことが出来る。
心地の良い音楽が聴ける。
・・・・。
空気のように当たり前と感じていたことが、当たり前でなくなるのが世の常です。当たり前の今に感謝したいものです。

るふへ戻る書籍のご紹介へ戻るホームへ戻る
Copyright (C) 2001 日月光明舎 All Rights Resreved.