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【るふNo.145】「渇仰の心」「良い薬」「仏様ってどんな像」 平成10年9月1日発行
 
渇仰の心
今から約三千年ほど前のことてす。インドにお釈迦さまが出現されました。そんな事は誰でも知っているかもしれませんが、これほど大切な事もないのです。
それは仏さまが地球上に出現されたのは、私達の知る限りでこの時だけだからなのです。地球誕生以来、約四十五億年たっておりますが、その中のたったの五十年間しか教えを説かれておられないのです。
仮に貴方が生まれてから死ぬまでの八十年の間に、一度だけお釈迦さまが現れて、貴方の為に教えを説いて下さるとします。しかし、その時間はたったの三十秒しかないとします。たった三十秒とはいえども、その三十秒は貴方の人生にとってかけがえのないものとなるでしょう。
いったい何が言いたいのかというと、四十五億年を人生八十年とするならば、人生八十年のうち三十秒ぐらいが、お釈迦さまが教えを説かれた時間になるということなのです。ともすれぱ、忘れてしまい、記憶の彼方に吹き飛んでしまいそうなくらいに短い期間です。それなら、一度と言わず何度も現れて下さっても良さそうなものですが、それにはちゃんとした理白があっての事なのです。
それを知る為には、一つ学ばねばならない事があります。それはなぜお釈迦さまが出現されたのかという事です。お釈迦さまの出現の理由については、お釈迦さまの最高の教えである「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」という教典に「全ての人々が本来そなえている仏の智慧を開くようにさせ、清浄な心を得せしめる為に出現された」と説かれています。要するに、全ての人々が「仏に成るため」に出現されたのです。
ならば、それこそ何度も現れて、仏の智慧を授けて下さればよいのにと思ってしまいますが、そこが仏の智慧の広大なところです。
昔から「親のすねかじり」とか「孝行を志せども、親はもう無し」などと言いますが、お釈迦さまが目の前にいらっしゃると、いつまでたってもお釈迦さまに頼りっぱなしで、本当に「仏になろう」とする努力を怠りがちになります。いわゆる「いつでもできる症候群」と言うものでしょうか。しかし、お釈迦さまがおられないと、「お釈迦さまに出会いたい」「お釈迦さまのおられた時代に生まれたかった」という様な気持ちが湧いてまいります。これを「渇仰の心」といいます。そして、この心こそが「仏に成る」ための原動力となって、私達を「仏の智慧」へ導き入れるのです。事実、お釈迦さまは「妙法蓮華経」において「私がこの世を去るのを見て、人々は恋慕を抱いて、渇仰の心を生じるだろう。そして、一心に仏に出会いたいと願って、身をも姿を現すだろう」と述べられておられるのです。
私達はもっとお釈迦さまのお心を理解せねばなりませんし、また、今以上にお釈迦さまを恋こがれなければならないのです。私達の為に出現されたお釈迦さまのお心を裏切ることは「親のすねかじり」よりも質(たち)が悪いとは思いませんか?
良い薬
仏教では、お釈迦さまが世を去られて二干年後を末法(まっぽう)と呼びます。末法とはお釈迦さまの教えが滅してしまう時代という意昧です。
そして、その末法の時代には全ての人々が「顛倒(てんどう)の衆生(しゅじょう)」になってしまうと説いております。「顛倒」とは「ひっくり返る」という意昧です。「衆生」とは「生きとし生けるもの」という意昧です。
では、どのように「ひっくり返った衆生」なのかというと、真理にもとった物の見方ができない為、善悪の判断が逆さまになり、誤った行いをしてしまっている人のことをいいます。
人間は豊かな生活をする為と言って、科学の発達を促してきました。しかし、その反面 、科学の発達は自然環境の衰退をもたらしました。
私達人間は良かれと思って、科学をし推し進めてきました。それは確かに豊かな生活をもたらしたかのように思われました。しかし、同時に環境破壊などの悪い状況を作り上げたこともまた事実です。
この様になってしまうのは私達が「真理にもとった見方」がてぎていないからなのではないでしょうか。つまり、末法に生きる私達人間こそが「顛倒の衆生」であるのです。
ところで、お釈迦さまが出現されたのは、今から約三干年前のことです。お釈迦さまは悟りを得てより世を去られるまでの五十年間の間に、様々な法を説き、また様々な人々を救済されました。そして、最後の八年間において、私達末法の時代に生きる「顛倒の衆生」のために、「妙法蓮華経」という法を説かれました。
そして、お釈迦さまはこの教典について「私が世を去って二千年後にこの法を広めなさい(略)なぜならぱ、この経は世の人々には良薬となるからである。」と述べられておられます。
お釈迦さまは二干年以上前から私達が誤った行いをするようになることを知って、さらには、それを正す為の法を説いて下されたのです。
つまり、「妙法蓮華経」はお釈迦さまが時を超えて、末法という今の時代に生きる私達に垂らされた大慈悲(だいじひ)なのです。
このように考えると、お釈迦さまの大慈悲を受け止めないことが現代人にとって最も誤った行いであると言えます。
私達はお釈迦さまがわざわざ「末法に生きる私達」の為に法を説いて下されたことを深く受け止めなけれぱなりません。「妙法蓮華経」はただ私達の為にだけあるのです。このことは本当に大事なことです忘れてはなりません。
この私達の為に用意された良薬である「妙法蓮華経」を信じれば、私達は間違った行いをしなくなり、本当の意味で豊かな生活を過ごすことがてぎるようになることでしょう。
先ずは、「妙法蓮華経」を信じることから始めるべきなのです。 もし、あなたが「妙法蓮華経」なんか必要ないとおもわれるのでしたら、それこそ「顛倒の衆生」である証拠なのです。
仏様ってどんな像
旅行の楽しみの一つに、古いお寺にお参りに行くことがあげられます。そこでいわれのある古い木像などをみると、思わず手を合わせるということになりますが、どのような像にたいしても「仏像」と言ってしまいがちです。しかし、どのような像にも呼び名があり、大きく仏像、菩薩像、天像、神像。そして過去の有名人というように分けられます。
それでは仏像、菩薩像、天像、神像の見分け方を簡単にいいますと、インドや東南アジアのお坊さんが身につけられている法衣を着られ、身に装身具をつけられていないのが仏像。同し法衣に宝冠や首飾りなどの、装身具をつけられているのが昔薩像。中国風の鎧や服、日本風の服を着ていられるのが天像と神像です。しかし例外も多く、たとえば北辰妙見大菩薩像は、中国風の鎧を身につけられています。
なぜ仏像が身に飾りをつけられないのかといいますと、完全に悟りの境地に安住されているため、世俗的な装身具は必要がないと考えられたためです。それに対し菩薩像は、末だ修行中であると考えられ、在家の貴人をモデルとし様々な装身具を身につけられているのです。
ところで、遥かむかし、お釈迦さまが亡くなられた紀元前五世紀頃にはお釈迦さまの像、仏像を作ることは厳しく禁じられていました。あまりにも偉大なお釈迦さまを人間の姿であらわすのは不可能であり、また不謹慎なことだと考えられたからです。また、お釈迦さまの肉身(からだ)は滅したが、法身(精神、魂)は不滅であるのだから、像を造るべきではないとも考えられました。しかし、時代とともに人々のお釈迦さまにたいする敬慕と崇拝の心が高まり、また法身を宿す仮の姿が必要であると考えられるようになりました。これらが原動力となり紀元一世紀後半から仏像が作られはじめたのです。
お寺で仏像、菩薩像などに手を合わせるとき、その像の歴史、芸術性に対して手を合わせてはいませんか。その像にお釈迦さま、菩薩さまの精神や魂が宿られているという意識を持ち、自らがその列座に加われるように祈ること。そうすることが手を合わせるということなのです。

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