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【るふNo.149】「法華経のおはなし其の三、其の四」「一切万物の姿」 平成11年9月1日発行
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法華経のおはなし 其の三
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ Saddharma-pundarika-sutra 方便品第二 (一) |
| 法華経二十八品の二番目は、方便品であります。 方便といえば、世間でいう“嘘も方便”というような言葉が連想されます。 しかし、法華経の方便品は、仏さまが、なぜこの世にお出ましになられたのかをあらわされた、絶対真実で嘘や手段とは縁がありません。 仏さまは、序品第一で瞑想に入られたまま、一言の説法もされませんでした。 それが方便品になると、静かに瞑想から出られて、弟子の中でも智慧第一といわれる舎利弗(しゃりほつ)さまにむかって、「諸仏(しょぶつ)の智慧(ちえ)は甚深無量 (じんじんむりょう)なり。」(仏の智恵というものは甚だ深く無量にある)と語りかけられました。これが法華経の第一声でありました。 さらにつづけて「その智慧の門は難解難入(なんげなんにゅう)なり。一切の声聞(しょうもん)・辟支仏(ひゃくしぶつ)の知ること能(あた)わざるところなり。」(仏の智慧は理解し難く、入り難い、声聞や辟支仏といった修行を積んだものでさえも知ることは出来ない。)こう述べられたのは、仏さまがお悟りを開かれて以来四十余年の間、説いてこられた教えが、人々を悟りの道へ導くためのもので、本当の仏の智慧というものはもっともっと計り知れなく、理解しがたいということを言いたかったからです。 しかし、この言葉を聞いた弟子たちは、自分の耳を疑ったことでしょう。今まで、四十年も修行を積んできたにもかかわらず、あなたたちでは、仏の智慧を到底理解することは出来ないと言われたのですから。 そしてここまできて仏さまは、「止みなん、舎利弗(しゃりほつ)、また説くべからず。」と、舎利弗さまにむかって、もうお説教はやめよう。なぜなら、もっとも難解な教えで、凡人には理解できないからである、と言われました。 そこで仏さまは、甚深無量な智慧とはなんたるかを説かれます。 「いわゆる諸法の如是相(にょぜそう)・如是性(にょぜしょう)・如是体(にょぜたい)・如是力(にょぜりき)・如是作(にょぜさ)・如是因(にょぜいん)・如是縁(にょぜえん)・如是果 (にょぜか)・如是報(にょぜほう)・如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)なり。」 これを「十如是(じゅうにょぜ)・諸法実相(しょうほうじっそう)」といいます。如是というのは「かくのごとし」で、あるがまま、ということで、諸法というのは、宇宙に存在するすべての物をいいます。 この「諸法実相」を窮め尽くされて、仏と成られたのです。 舎利弗さまは、どうしてもその教えを説いてくださるように三度、お願いされます。 仏さまはこの要請についに、「汝(なんじ)すでに慇懃(おんごん)に三たび請(しょう)じつ、あに説かざることを得んや。汝いま諦(あきら)かに聴き、善くこれを思念せよ。」と、ついに仏さまの真実の智慧を明かされるときが来たのです。 しかし、“親の心子知らず”で、ここまでお話になった時、集まった大衆の中から五千人の鼻の高い人々(増上慢の人)が、席を立って出て行きました。 しかし、仏さまは「退くまた佳(よ)し。」とすがすがしい声でお説教を始められました。(つづく) |
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法華経のおはなし 其の四
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ Saddharma-pundarika-sutra 方便品第二 (二) |
| まず、最初にお話しされたことは、この世に仏さまが出られた理由です。仏さまがこの世にお出ましになったのは、決して偶然などではないということです。仏さまはこれを「一大事の因縁をもっての故に世に出現したもう」といわれています。「一大事の因縁」とはすなわち、「衆生(しゅじょう)(人々)をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめ、清浄(しょうじょう)なることを得せしめんと欲するがゆえ」だということです。「仏知見」といえば、仏さまの智慧ということですが、それが仏さまだけのものではなく、一切衆生、すべての者の心の中にあるものだから、それを開かしめ・示し・悟らしめ・入らしめる(四仏知見)。このために、仏さまはこの世にお出ましになったのだと言われました。「諸法実相」といい、「四仏知見」といい、これらは、これまでの修行や悟りの認識を本来のあるべき姿に戻すために説かれたものです。これまでの修行や悟りとは、すなわち「灰身滅智(けしんめっち)」というものを目的としていました。これは、人間に苦しみがあるのはなぜか。それは、煩悩があるからだ。煩悩があるのは、心や体があるからだ。その心や体を厳しい修行によって無くしていく。たとえば、毎日の食事を少しずつ減らしていく。するとやがては体を維持していくための力だけがのこり、よこしまな考えを起こす力さえなくなる。心も同様に無くなる修行をする。更には、無になろうと考える心さえも無にする。これらの修行によって煩悩もなくなり、苦しみから逃れられると考えられていました。まさに文字通
り、身を灰にして智を滅する、ことをいうのです。仏さまはこれらの修行や悟りは本当のものではないと否定され、あるのはただ平等大慧の一仏乗だけだとおっしゃいました。それならば、なぜ初めから一仏乗をお説きにならなかったのでしょうか。それは「ただ諸欲に楽著(ぎょうぢゃく)せるをもってかくのごときらの衆生(しゅじょう)はついに仏道を求めず当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず法を破して悪道に堕せん」 すなわち、目先の欲にとらわれて生きる者は、仏道を求めようとしない。そればかりか、一仏乗という尊い教えを聞くとかえって迷い困惑してしまってよけいに信じようとせず、その法を破壊して、悪道に堕ちてしまうからです。 それ故にお釈迦さまは、四十余年という歳月をかけて衆生(人々)の能力を高められ、ついに一仏乗という教え、つまり妙法連華経を説き明かす時が来たのだとおっしゃっています。 この方便品では、最後に「みずからまさに作仏すべしと知れ。」(自分自身が仏となれることを知りなさい。)とおっしゃって締めくくられています。 |
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「一切万物の姿」
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| お釈迦さまは、三十歳で悟りを開かれ、仏陀(覚者)となられました。 「悟り」という言葉は、多くの方が耳にされたと思いますが、一体何を悟られたのでしょうか。 方便品では、それを「十如是・諸法実相」で表されています。 「いわゆる諸法の如是相(にょぜそう)・如是性(にょぜしょう)・如是体(にょぜたい)・如是力(にょぜりき)・如是作(にょぜさ)・如是因(にょぜいん)・如是縁(にょぜえん)・如是果 (にょぜか)・如是報(にょぜほう)・如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)」です。 これは、一切万物の真実の姿を十の項目に分けたものです。 この一々をロウソクを例にとって説明いたしますと、 「相」とは、そのものの姿、形が外に表れたもの、ロウソクだと、白くて、長く、芯が通 っている。 「性」とは、そのものが持っている性質、内に秘めているもの。ロウソクに火をつけると、火は灯るが自身は溶けるなど。 「体」とは、「相」と「性」をあわせもった本質。ロウソクそのもの。 「力」とは、潜在的な能力。ロウソクだと火を長時間、灯すことが出来る。 「作」とは、作用、はたらき。「力」が発揮されたとき、他にも及ぼすもの。まわりを明るく暖かにする。 「因」とは、ものが生起し変化する直接的原因。ロウソクの芯にマッチで火をつけるなど。 「縁」とは、助縁、すなわち原因を助ける間接的原因。ロウソクに火を灯すには人の手も必要だし、燃えるには酸素が必要。 「果」とは、「因」と「縁」によって生じた結果。まわりが明るくなり、暖かくなる。ロウソクは短くなっていく。 「報」とは、その結果が具体的にあらわれること。まわりが明るくなることによって、見えなかったものが見えたり、冷たかったものを暖かにする。 「本末究竟等」とは、第一の「相」から第九の「報」までが一貫して等しく存在するということ。 この「十如是」は、なにも物だけでなく、私たち人間にもそなわり、それぞれの存在を支えあっているのです。 私という姿、外見(相)があり、性格(性)があり、その2つをあわせもったのが私であり(体)、弁舌が優れていたり、記憶力があったり(力)、他人を感動させたり、怒らしたり(作)・・・ このように、すべての事物の生起、存在はこの「十如是」の法則に従っているということです。 これが一切の万物の真実ありのままの姿であり、仏さまはこれを悟られたのです。これを悟ることによって、宇宙の森羅万象すべての事柄・事象・現象・作用・動き・営みがわかるようになられたのです。 これが方便品の中のテーマである「諸法実相」というものです。ありとあらゆる物がこの「十如是」を備えているが故に、これらのつながりをすべて悟られている仏さまの目からこの世界を見ますと、すべてのものは平等に存在する、差別 がないのだ、という絶対平等の世界、いわゆる仏さまの世界がそこに存在するのです。 ですから、わたしはあの人より恵まれていない、もっとお金持ちの所にうまれればよかったなど、不平不満ばかりを言わずに、いまこの世が仏さまの世界だということに気づき、与えられた人生を精一杯生きることが大切なのです。 |
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