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【るふ No.151】「法華経のおはなし其の七、其の八」「三つの苦しみ」 平成12年3月1日発行
 
法華経のおはなし 其の七
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
Saddharma-pundarika-sutra
信解品第四
(一)
 この信解品(しんげほん)というのは、須菩提(しゅぼだい)さまや迦旃延(かせんねん)さま、迦葉(かしょう)さま、目連(もくれん)さまといった四人の高弟(こうてい)が、先の譬喩品(ひゆほん)第三によって示された「三車火宅(さんしゃかたく)の譬(たと)え」を聞き、また舎利弗(しゃりほつ)さまが仏となれる約束を受けられたのを見て、自分たちも仏になれる可能性があることを知って
『無量の珍宝、求めざるに、おのずから得たり』
(数えきれないほど多くの珍しい宝物を求めてもいないのに自然と得ることができた)と喜び、どのように自分たちが仏さまの真意を理解したのかを譬え話によって述べられています。それが法華経における第二番目の譬え話「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」であります。
 幼年の頃、父を捨てて家を出た子が、他国に住んで五十年が経ちました。その子は年をとるにつれ、ますます貧困し四方に足をのばして衣服や食物を求めていると、偶然に、もとの国の方へ向かいました。一方、父の方は以前から子を探し求めていたが見つけることができずに一城にとどまっていました。しかも、その父は大いに富んで財宝は計り知れないほどでした。金銀は倉庫からあふれ、多くの人を雇い、象や馬も無数に所有しておりました。
 時に子は色々な国や村をめぐった後、ついに父のいる城に至りました。父はつねづね子を思って、
『老朽(ろうく)して多く財物(ざいもつ)有り。金(こん)・銀(ごん)・珍宝(ちんぽう)、倉庫に盈溢(よういつ)すれども、子息あること無し。一旦に終没(じゅうもつ)しなば、財物散失(ざいもつさんしつ)して委付(いふ)する所無(ところな)けん。』
(私は年老いてしまったが、多くの財物がある。金銀や珍しい宝物は倉庫に満ち溢れているが子供がいない。ひとたび私が死んでしまったならば、この財物はゆだねるところもなく、散失してしまうだろう)と。
 城にやってきた子は、門から父を見ると、獅子の腰掛に座り、宝玉(ほうぎょく)づくりの足台に足をのせ真珠の玉 飾りで身を飾り、貴族や富豪たちが取り囲んでおりました。また種々の厳か(おごそか)な飾りがあって、ことのほか威厳(いげん)に満ちていました。この姿を見た子は、
『これ、或いはこれ王か、或いはこれ王と等しきか。我が傭力(ゆうりき)して物を得(う)べきところにあらず。しかし、貧里(びんり)に往至(おうし)して肆力(しりき)ところあって衣食得易(えじきえやす)からんには。もし久しくここに住(じゅう)せば、あるいは逼迫(ひっぱく)せられ、強(し)いて我をして作(な)さしめん。』
(この人は王であろうか、王と同じくらいの人であろうか。私が雇われて物を得ようとするようなところではないようだ。もっと貧しい村に行って、力を尽くして働くところがあれば、衣食は得易いだろう。長くとどまっていると、責め立てられ、強制されて働かされるかもしれない)と。
 こう思って走り去ろうとする我が子を父は見つけ、やっと自分の財産を与えるものができたと喜び、ただちに使いの者を走らせたが、子は何も悪いことをしていないのにどうして捕らえられるのですかと叫び、無理に引き立てようとすると、とうとう気絶してしまいました。(つづく)
法華経のおはなし 其の八
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
Saddharma-pundarika-sutra
信解品第四
(二)
 はるかよりこれを見ていた父は、その子が身も心も落ちぶれてしまっていることを知り、誰にもこれが我が子であるとは言わずに子の思うようにさせることにしました。
 すると、子は喜んで貧しい村へ衣食を求めに行きました。
 父は子を呼び戻すために、今度は二人の顔かたちのやつれ衰え、威厳(いげん)もない者をさしむけ、「二倍の給料を与えよう。仕事は汚物の掃除だ。我ら二人と共に働こう。」と誘いかけました。
 他日、父は働く子を窓から見て、着ている上等な服や装身具をとって、粗末な衣服に着替え、体を汚して働いているものに声をかけました。
『汝達(なんだち)、勤作(ごんさ)して懈息(けそく)すること得(う)ることなかれ』
(お前たち、一生懸命働いて怠けることのないように)と。
 また後に、いつまでもここで働きなさい、よそに行ってはいけない、そして、
『好(よ)くみずから意(こころ)を安くせよ。我れ汝(なんじ)が父の如(ごと)し』
(安心しなさい。私はあなたの父のようなものだ)と。
 子は、この待遇を喜びはしましたが、まだ自分は使用人だと思っておりました。
 それから二十年ほどたった時、父は病にかかり、自分に死期が迫っていることをさとり、子に倉庫にある多くの財産を管理し、用心して失うことが無いようにと言いました。
 命令を受けた子は、倉庫の財物のすべてを知り尽くしましたが、今なお自分は劣っているという思いを捨てることができませんでした。
 また、しばらくして、ようやく大きな志しができ、いままでの心を反省するようになりました。
 父は臨終の時に臨んで子に命じ、国王や大臣を集めこう述べました。
『諸君まさに知るべし、これはこれ我が子なり。それがしの城中において我を捨てて逃走して、伶(りょう)・びょう辛苦(しんく)すること五十余年、(中略)これ実(じつ)に我が子なり、我れ実にその父なり。いま吾(わ)が所有の一切の財物はみなこれ子の有(う)なり。先に出内(すいない)する所はこれ子の所知(しょち)なり。』
(みなさん。お知りください。この者は私の子供です。城から私を捨てて逃げ、さすらい苦労して五十余年が経ちました。この者は私の実子(じっし)です。私は実の父です。今、私が所有しているすべての財物は全部私の子のものです。これまで出し入れしてきたものは、この子が知っております)と。
 そして、子は父のこの言葉を聞いてこう思いました。
「私は、もともと心に願い求めることがなかったのに、今この宝の蔵は自然に私のところへやってきた」と。
 以上が譬え話のあらすじですが、ここに出てくる大富長者の父は、仏さまで、子はその弟子を指します。
 仏さまは、弟子が迷い惑って智慧がなかったために小乗(しょうじょう)という低い教えにとらわれていたので、まず誤った考えという汚物を除き去ることをすすめられました。そのような中で勤め励み、一日分の給料にあたるものを得ました。すなわち小乗の悟りです。
 これを得ることによって大いに喜んで、十分満足し、大乗というもっと高度な教えを求めることをしませんでした。なぜなら、真に仏の子で自分も仏になれることを知らなかったからです。
 しかし、今やこの経の中には、ただ一つの教えの乗り物(一仏乗(いちぶつじょう))だけを説かれました。これは、自分たちも仏になることが出来る保証を得たということです。それゆえに、求めていなかった宝ものが、ひとりでに手に入ったと述べられたのです。
三つの苦しみ
 信解品(しんげほん)のだいたいの概要を述べてまいりましたが、この中でなぜ弟子たちが小乗(しょうじょう)という低い教えにとらわれていたのかを次のように述べられています。その一節から今の私たちに語りかけていることを考えてみましょう。
『われら三苦(さんく)をもっての故(ゆえ)に、生死(しょうじ)の中に於いてもろもろの熱悩(ねつのう)を受け、迷惑無知(めいわくむち)にして小法(しょうぼう)に楽著(ぎょうじゃく)せり。』
(私たちは三種(さんしゅ)の苦(く)のために、生死輪廻(しょうじりんね)の中において、さまざまな熱い苦悩をうけ、迷い惑(まど)って智慧(ちえ)がなく、低い小さな教えに執着(しゅうちゃく)しておりました)と。
 まず、「三種の苦」とはどういうものかを説明しますと、まず一つに「苦苦(くく)」、これは、苦しいという事実、私たちがただこれは苦しいなと思う苦しみそのもののことです。
 二つに「壊苦(かいく)」、これは世の中というものは苦しみだけではない、生きていれば楽しいこともあるではないかと思う方もいるかもしれません。しかし、この楽しみというのは永久に壊れないわけではありません。楽しみがなくなったら苦しみになるのです。
 ですから私たちが言っている楽しみということは、結局は「壊苦」で、一般 に言っている苦しみは「苦苦」ということになります。
 そして三つめに「行苦(ぎょうく)」、これは苦しみや楽しみはたしかにあるが、必ずしもどちらかに分けられるかというとそうでもありません。事実、ぼんやりしている時など、苦しくもないし、楽しくもない。しかし、これが「行苦」と呼ばれるものです。なぜなら、世の中というものは常に時間は流れ行き、とどまることを知りません。ぼんやりしていても永く続くことはないのです。
 このように考えてまいりますと、私たちが常日頃対面している苦しみはすべてこの「三苦(さんく)」に集約されます。
 たとえば、お金が無いのは苦しい(苦苦)、そんな中、お金が少しでもたまったら休暇を取って海外旅行を楽しむ(壊苦)、そういう日々を毎日くり返し送る(行苦)。こういう生活をしている人は少なくはないのではないでしょうか。
 私たちは、そんな三苦の中で生活をしながら幸せを追い求めようとして、良い大学に入ることが出来たならとか、良い会社に入社できたなら、もっとお金があったならばと、目先の幸せだけにとらわれてそれを得よう、得ようとまるで熱にうなされているようなものです。
 仏さまから見ると、私たちがいう幸せというものは、まさに「一日分の給料」にほかならないのです。
 仏さまはそんな私たちに、もっと大切で永遠に変わることのない真の幸福があるではないか目先の小さな幸せにとらわれていてはいけない、と教えられているのです。まさに大富長者の父と子供のように。
 しかし、理屈はわかっていても実行できないのが私たち凡夫(ぼんぷ)です。
 そんな私たちに日蓮聖人は、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合せて、南無妙法蓮華経とうちとなへ居させ給へ。これあに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや。」と述べられています。
 苦は苦と悟ってじたばたせず、楽は楽と心を大いに開き、苦も楽もともに、そうか、そうかと受けとめて感謝の気持ちで南無妙法蓮華経とお唱えすることに、仏さまが悟られた世界を自ら楽しまれたという、真の幸福があるのです。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・。

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