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【るふ No.152】「法華経のおはなし其の九、其の十」「薬草」 平成12年7月1日発行
 
法華経のおはなし 其の九
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
Saddharma-pundarika-sutra
薬草喩品第五
(一)
法華経(ほけきょう)の二十八品(にじゅうはっぽん)の第五章は「薬草喩品(やくそうゆほん)」です。この章の冒頭は、法華経第四章「信解品(しんげほん)」において、大弟子がそれぞれ大乗の教えを信じ理解したことを述べた「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え(たとえ)」(るふ No.151参照)を聞いて、仏さまが摩訶迦葉(まかかしょう)さまをはじめとする、大弟子を誉め讃える場面 から始まります。
ここではさらに、仏さまが、大弟子以外のどんな人にも理解が出来るように喩え話を説かれます。これが法華経の第三番目の、「三草二木(さんそうにもく)の喩え(たとえ)」です。
この世界の山・川・谷等の地に生い茂っている木や薬草、大中小の木や林はいろいろな種類があり、名も形も異なっています。
そこへ、「密雲弥布(みつうんみふ)してあまねく三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)に覆い、一時に等しくそそぐ」(空一杯に厚い雲が空に広がって世界を覆い一時に等しく雨を降らす)
そして、その雨は草木を平等に潤します。しかし、雨を受ける草木は、「一地(いちぢ)の所生(しょしょう)・一雨(いちう)の所潤(しょにん)なりといえどもしかももろもろの草木(そうもく)おのおの差別 (しゃべつ)あるがごとし」(同じ所に生え、同じ雨を受けても、それぞれの種類、性質、大きさなどにより雨の恵みの受け方に違いがある)
仏さまもこの喩え話にある大雲が起こるように、この世に出現され、大地に平等に雨を降らすように人々に説法をされたのです。
それは、
「いまだ度(ど)せざる者は度せしめ
 いまだ解(げ)せざる者は解せしめ
 いまだ安(あん)ぜざる者は安ぜしめ
 いまだ涅槃(ねはん)せざる者は涅槃を得せしむ」
(いまだ悟りの世界に渡っていない者、いまだ真実の教えを理解できない者、いまだ心の安らかでない者、いまだ悟りの境地を得ることができない者のために)
そこで、仏さまは、人々の能力の優劣や努力や怠りを観じとられ、その人の能力に応じて、さまざまな教えを説かれました。
これらの人々は説法を聞きおわって、
「現世安穏(げんぜあんのん)にして後に善処に生じ道をもって楽を受け また法を聞くことを得(う)」(現世は安らかとなり、死後はより善いところに生まれ変わる。生まれ変わっても仏道に励み、楽を受け、また法を聞くことができる)
これらのことは、まるで
「かの大雲の一切の卉木(きもく)・叢林(そうりん)およびもろもろの薬草に雨る(あめふる)に、その種性(しゅしょう)のごとく具足(ぐそく)して潤い(うるおい)を蒙り(こうむり)、おのおの生長(しょうちょう)することを得るがごとし」(大雲がすべての草木や林や薬草に雨を降らし、その潤いによってそれぞれがその種類や性質によって成長するようなものである)
しかし、人々が仏さまの説法を聞き、または読誦し、そのとおりに修行したとしても、
「得る(うる)ところの功徳(くどく)みずから覚知(かくち)せず」 (その功徳を自らが知ることはできない)
まるで、草木や薬草が自分の上中下の性質を知らないように、人も自分の性質を知ることができません。
ただ、仏さまだけが人々の本質や本性を知り、また人々が何を念じ、思い、修行するかを知り、それがどのような結果 となり、何を得るかを明確に知っておられるのです。
これらのように、仏さまが人々に応じて教えを説かれたことを理解することのできた摩訶迦葉(まかかしょう)さまに、本当にまれなことだと述べられました。
法華経のおはなし 其の十
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
Saddharma-pundarika-sutra
薬草喩品第五
(二)
次に経文は今まで述べてきた内容をふたたび偈文(げもん)で繰り返し説かれますが、「三草二木(さんそうにもく)の喩え(たとえ)」ではさらに詳しく述べられています。
仏さまが長い間、真実の教えを語らず黙ってこられたのは、
「智(ち)あるものは聞いてはすなわちよく信解(しんげ)し、智なきは疑悔(ぎけ)してすなわち永く失うべし」(智慧(ちえ)のある者が聞けばよく信じ理解できるが、智慧のない者は、かえって疑いを起こし永く失うことになる)
それ故、仏さまはまず、一人一人の能力にあわせて教えを説かれたのです。
そして、その教えを聞く者はそれぞれの能力にしたがってさまざまな境地にとどまるのです。
「人(にん)・天(てん) 転輪聖王(てんりんじょおう) 釈(しゃく)・梵諸王(ぼんしょおう)に処する これ小(しょう)の薬草なり」(人間や神々となり、転輪聖王=人界の王、帝釈天(たいしゃくてん)・梵天(ぼんてん)=天界の王、などとなる。これを草木に喩えると「小の薬草」となります)
「独山林(ひとりせんりん)に処し 常に禅定(ぜんじょう)を行(ぎょう)じて 縁覚(えんがく)の証(しょう)を得る(うる)これ中(ちゅう)の薬草なり」(独りで山林に住み、常に心の安定を望み、世の中の理(ことわり)を知る縁覚の位 を得る。これは「中の薬草」となります)
「世尊(せそん)の処(ところ)を求めて 我れまさに作仏(さぶつ)すべしと 精進(しょうじん)・定(じょう)を行(ぎょう)ずる これ上(じょう)の薬草なり」(私は仏になるのだと願い、努力し、心を安定させ修行する。これは「上の薬草」となります)
「心を仏道に専ら(もっぱら)にして 常に慈悲を行(ぎょう)じ みずから作仏(さぶつ)せんこと 決定して疑いなしと知る これを小樹(しょうじゅ)と名づく」(心の中心を仏道におき、常に慈悲の修行をし、自分が仏となることに疑いを持たず、すでに決定していることだと知る。これは「小樹」となります)
「不退(ふたい)の輪(りん)を転じ 無量億百千(むりょうおくひゃくせん)の衆生(しゅじょう)を度(ど)する かくのごとき菩薩(ぼさつ)を名づけて大樹(だいじゅ)となす」(退くことなく法を説き、たくさんの人々を救済する。このような菩薩は「大樹」となります)
仏さまの教えにより、人々がそれぞれの能力に応じて修行し成長することは、ちょうど、「薬草やさまざまな樹木が、その大小に応じてだんだんと繁茂(はんも)していく」かのようです。
また、だんだんと修行を重ね、すべてが悟りへの結果を得、声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)(自分だけが悟ろうとする者)としての最後に、説法を聞いてその果 報を得る。これは、「薬草が成長を増す」ようなものです。
また、菩薩(ぼさつ)(自分以外の者をも救おうとする者)たちが智慧(ちえ)をしっかりと確立し世界のあらゆることを知り尽くし、最上の教えを求めることは「小樹が成長を増す」ようなものです。
また、心が安定し、神通力(じんつうりき)を持ち、あらゆる存在が空(くう)であることを聞いて、心大い(こころおおい)に喜び、無数の光を放って多くの人々を救済する。これは「大樹が成長を増す」ようなものです。
そして、この経の最後に、仏さまは声聞である摩訶迦葉(まかかしょう)さまたちに、
「汝等(なんだち)が所行(しょぎょう)は これ菩薩(ぼさつ)の道(どう)なり 漸漸(ぜんぜん)に修学(しゅうがく)して ことごとくまさに成仏(じょうぶつ)すべし」(あなたたちが行なわなければならないことは菩薩としての修行です。だんだんに修行を重ね学んで、誰もが必ず仏となれるのです)と告げられました。
薬草
「薬草喩品(やくそうゆほん)」の中では、人々を自然界のさまざまな薬草に喩えられて述べられました。今回はその「薬草」というテーマで考えたいと思います。
今から、三千年ほど昔、インド最古の文献として知られる《リグ・ベーダ》という聖典にはすでに病気や薬草に関する賛歌があり,神々のあるものは病気を起こし,あるものは治療するものとして歌われています。
医学が知の体系へとまとめられ専門的学問になるのはちょうどインドにおいて自由思想が生まれ,ウパニシャッド(古代インド哲学書)の哲人やマハービーラ(ジャイナ教の開祖)、そしてお釈迦さまが活躍した時代です。伝説的な名医ジーバカ(耆婆(ぎば))はお釈迦さまの侍医であったといわれます。
後の古典医学書に登場する伝説的な医者たちの多くも,歴史上の人物とすればこの時期に属します。
また、《リグ・ベーダ》の後に出来た、《アーユル・ベーダ》という綱要書には,千種類以上のが,その目的と用法に応じて詳細に分類されています。
これらから見ても、かなり古くから薬草が人間と密接な関係を保ってきたことがわかります。
辞書で薬草(薬用植物)を調べてみますと、
「薬用に供しうる植物の総称。広義には古代から経験的に病気の治療および予防に用いられてきたもののほかに,医薬品の原料となるもの,香辛料,嗜好品,薫香料,香粧品や,未開社会において食糧を得るための矢毒や魚毒なども含まれる。したがって薬用植物とは人間および動物に対して,特殊な生理作用を有する植物ということもできる。少量 で人間や動物を死なせたり,あるいは損傷するものを特に有毒植物というが,それは使い方によっては薬物となる可能性のあるものである。しかし薬用植物とそうでない一般 の植物の境界は明らかでない。同じ植物がある地域では薬用に利用されるのに,別 の地域では無用の場合がある。」
個人的な考えですが、お釈迦さまが人々を薬草に喩えられて説かれたことは、これらのことも考慮に入れられていたように思います。
薬草とは、ただ病気を治すだけでなく、使い方によっては毒草ともなるのです。
私たちが、相手の気持ちになって行動したときは薬草になり、自分本位な行動をしたとき、毒草となるのかもしれない。
その両面を持っていることを忘れてはならないし、一人一人が「薬草」になることをめざしていくことが大切なのではないでしょうか。

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