仏説観普賢菩薩行法経
 かくのごときを我れ聞きき。一時、仏、毘舎離国・大林精舎・重閣
講堂に在して、もろもろの比丘に告げたまわく、
「さって後三月あって、我れまさに般涅槃すべし。」
 尊者阿難、すなわち座より起って衣服を整え、手を叉え合掌して、仏を遶ること三匝して、仏のために礼を作し、胡跪し合掌して、諦かに如来を観たてまつりて目暫くも捨てず。長老摩訶迦葉・弥勒菩薩摩訶薩もまた座より起って、合掌し礼を作して尊顔を瞻仰したてまつる。
 ときに三大士(阿難・迦葉・弥勒)、異口同音にして仏に白して言さく、
「世尊、如来の滅後にいかにしてか衆生、菩薩の心を起こし、大乗方等経典を修行し、正念に一実の境界を思惟せん。いかにしてか無上菩提の心を失なわざらん。いかにしてか復まさに煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得、父母所生の清浄の常の眼、五欲を断ぜずして、しかもよくもろもろの障外の事を見ることを得べき。」
 仏、阿難に告げたまわく、
「諦かに聴け、諦かに聴け、善くこれを思念せよ。如来むかし、耆闍崛山および余の住処において、すでに広く一実の道を分別せしかども、いまこの処において、未来世のもろもろの衆生等の大乗無上の法を行ぜんと欲せん者、普賢の行を学し、普賢の行を行ぜんと欲せん者のために、我れいままさにその所念の法を説くべし。もしは普賢を見、および見ざる者の罪数を除却せんこと、いま汝等がためにまさに広く分別すべし。
 阿難、普賢菩薩はすなわち東方の浄妙国土に生ぜり。その国土の相は雑華経の中にすでに広く分別せり。我れいまこの経において略して解説せん。
 阿難、もし比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・竜・八部・一切衆生の大乗を誦せん者、大乗を修せん者、大乗の意を発せん者、普賢菩薩の色身を見んと楽わん者、多宝仏の塔を見たてまつらんと楽わん者、釈迦牟尼仏および分身の諸仏を見たてまつらんと楽わん者、六根清浄を得んと楽わん者は、まさにこの観を学すべし。
 この観の功徳は、もろもろの障碍を除いて上妙の色を見る。三昧に入らざれども、ただ誦持するがゆえに、心を専らにして修習し、心心相次いで大乗を離れざること、一日より三七日にいたれば普賢を見ることを得。
 重き障りある者は、七七日の後、しかして後に見ることを得、
 また重きことある者は一生に見ることを得、
 また重きことある者は二生に見ることを得、
 また重きことある者は三生に見ることを得。かくのごとく種種に業報不同なり。このゆえに異説す。
 普賢菩薩は身量無辺・音声無辺・色像無辺なり。この国に来たらんと欲して自在神通に入り、身を促めて小ならしむ。閻浮提の人は三障重きがゆえに、智慧力をもって化して白象に乗れり。
 その象に六牙あり、七支地をささえたり。その七支の下に七蓮華を生ぜり。その象の色鮮白なり、白の中に上れたる者なり。頗黎雪山も比とすることを得ず。
 象の身の長さ四百五十由旬、高さ四百由旬。六牙の端において六つの浴池あり。一一の浴池の中に十四の蓮華を生ぜり、池と正等なり。その華、開敷せること天の樹王のごとし。
 一一の華の上に一りの玉女あり。顔色紅のごとくにして、暉天女に過ぎたるあり。手の中に自然に五つの箜篌を化せり。
 一一の箜篌に五百の楽器あり、もって眷属とせり。
 五百の鳥あり、鳧・雁・鴛鴦、みな衆宝の色にして、華葉のあいだに生ぜり。
 象の鼻に華あり、その茎、譬えば赤真珠の色のごとし。その華、金色にして含んでいまだ敷けず。
 この事を見おわってまたさらに懺悔し、至心に諦観して大乗を思惟すること心に休廃せざれば、華を見るにすなわち敷け金色に金光あり。その蓮華台はこれ甄叔迦宝・妙梵摩尼をもって華台とし、金剛宝をもって華鬚とせり。
 化仏いませるを見るに蓮華台に座したまえり。衆多の菩薩、蓮華鬚に坐せり。化仏の眉間よりまた金色の光りを出して象の鼻の中に入る。紅蓮華の色にして象の鼻の中より出でて象の眼の中に入り、象の眼の中より出でて象の耳の中に入り、象の耳より出でて象の頂上を照らして化して金台と作る。
 象の頭の上に当たって三化人あり、一りは金輪を捉り、一りは摩尼珠を持ち、一りは金剛杵を把れり。杵を挙げて象に擬するに、象すなわちよく行歩す。脚地を履まず、虚を躡んで遊ぶ。地を離るること七尺、地に印文あり。印文の中において千輻轂みなことごとく具足せり。
 一一の間に一の大蓮華を生ず。この蓮華の上に一の化象を生ぜり。また七支あり、大象に随って行く。足を挙げ足を下すに七千の象を生ず。もって眷属となして大象に随従せり。
 象の鼻紅蓮華の色なる、上に化仏いまして眉間の光りを放ちたもう、その光り金色にして前のごとく象の鼻の中に入り、象の鼻の中より出でて象の眼の中に入り、象の眼より出でて還って象の耳に入り、象の耳より出でて象の頂上に至る。漸漸に上り象の背に至り、化して金鞍となって七宝校具せり。
 鞍の四面において七宝の柱あり。衆宝校飾してもって宝台をなせり。台の中に一の七宝の蓮華鬚あり。その蓮華鬚は百宝をもって共に成ぜり。
 その蓮華台はこれ大摩尼なり。一りの菩薩あり、結跏趺坐せり、名を普賢という。身白玉の色にして五十種の光りあり。光りに五十種の色あり、もって頂光となす。身のもろもろの毛孔より金光を流出す。その金光の端に無量の化仏まします。もろもろの化菩薩をもって眷属となせり。
 安詳としてようやくに歩み、大いなる宝蓮華を雨らして行者の前に至らん。その象口を開くに、象の牙の上において、諸池の玉女鼓楽絃歌す。その声微妙にして大乗一実の道を讃嘆す。
 行者見おわって歓喜し敬礼して、またさらに甚深の経典を読誦し、あまねく十方無量の諸仏を礼し、多宝仏塔および釈迦牟尼仏を礼したてまつり、ならびに普賢・もろもろの大菩薩を礼して、この誓願を発す、『もし我れ宿福あらばまさに普賢を見たてまつるべし。願わくは尊者遍普(普賢)、我れに色身を示したもうべし』と。
 この願を作しおわって、昼夜六時に十方の仏を礼し懺悔の法を行じ、大乗経を読み、大乗経を誦し、大乗の義を思い、大乗の事を念じ、大乗を持つ者を恭敬し供養し、一切の人を視ること、なお仏の想いのごとくし、もろもろの衆生において父母の想いのごとくせよ。
 この念を作しおわりなば、普賢菩薩すなわち眉間より大人相白毫の光明を放たん。この光り現ずるときに、普賢菩薩、身相端厳にして紫金山のごとく、端正微妙にして三十二相みなことごとく備え有てらん。
 身のもろもろの毛孔より大光明を放ち、その大象を照らして金色とならしめん。一切の化象もまた金色となせり、もろもろの化菩薩もまた金色とならん。その金色の光り、東方無量の世界を照らすに、みな同じく金色ならん。南・西・北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。
 そのときに十方面、一一の方において一りの菩薩の六牙の白象王に乗れるあり。また普賢のごとく等しくして異ることあることなけん。かくのごとく十方無量無辺の中に満てる化象も、普賢菩薩の神通力のゆえに、持経者をして皆ことごとく見ることを得せしめん。
 このときに行者、もろもろの菩薩を見て身心歓喜して、そのために礼を作して白して言さく、『大慈大悲者、我れを愍念したもうがゆえに我がために法を説きたまえ』と。
 この語を説くときに、もろもろの菩薩等、異口同音に、おのおの清浄の大乗経法を説いて、もろもろの偈頌を作って行者を讃歎すべし。これを始めて普賢菩薩を観ずる最初の境界と名づく。
 そのときに行者この事を見おわって、心に大乗を念じて昼夜に捨てざれば、睡眠の中において、夢に普賢そのために法を説くと見ん。
 覚のごとくにして異ることなく、その心を安慰してこの言をなさん。『汝が誦持するところ、この句を忘失し、この偈を忘失せり』と。そのときに行者、普賢の深法を説くことを聞いてその義趣を解し、憶持して忘れじ。
 日日に是のごとくしてその心ようやく利ならん。普賢菩薩それをして十方の諸仏を憶念せしめん。普賢の教に随って正心・正憶にして、漸く心眼をもって東方の仏の身黄金の色にして端厳微妙なるを見たてまつらん。一仏を見たてまつりおわって、また一仏を見たてまつらん。かくのごとく漸漸にあまねく東方の一切の諸仏を見たてまつり、心想利なるがゆえに、あまねく十方の一切の諸仏を見たてまつらん。
 諸仏を見たてまつりおわって、心に歓喜を生じて、この言をなさく。
『大乗に因るがゆえに大士を見ることを得、大士の力に因るがゆえに、諸仏を見たてまつることを得たり。諸仏を見たてまつるといえども、なおいまだ了了ならず。目を閉ずればすなわち見、目を開けばすなわち失う。』この語を作しおわって、五体を地に投じてあまねく十方の仏を礼せん。
 諸仏を礼しおわって、胡跪し合掌してこの言をなせ、『諸仏世尊は十力・無畏・十八不共法・大慈・大悲・三念処まします。常に世間に在して色の中の上色なり。我れ何の罪あって見たてまつることを得ざる』と。
 この語を説きおわって、またさらに懺悔せよ。懺悔清浄なること已りなば、普賢菩薩またさらに現前して行・住・座・臥にその側を離れず。ないし夢の中にも常にために法を説かん。この人覚めおわって法喜の楽を得ん。
 是のごとくして昼夜三七日を経て、然して後にまさに旋陀羅尼を得ん。陀羅尼を得るがゆえに、諸仏・菩薩の所説の妙法憶持して失わじ。
 また常に夢に過去の七仏を見たてまつらんに、ただ釈迦牟尼仏のみ其れがために法を説きたまわん。このもろもろの世尊、各各に大乗経典を称讃したまわん。
 そのときに行者またさらに歓喜して、あまねく十方の仏を礼せん、十方の仏を礼しおわりなば、普賢菩薩その人の前に住して、教えて宿世の一切の業縁を説いて、黒悪の一切の罪事を発露せしめん。もろもろの世尊に向いたてまつり、口にみずから発露せよ。
 すでに発露しおわりなば、尋いでときにすなわち諸仏現前三昧を得ん。この三昧を得おわって、東方の阿仏および妙喜国を見たてまつること了了分明ならん。かくのごとく十方おのおの諸仏の上妙の国土を見ること了了分明ならん。
 すでに十方の仏を見たてまつりおわって、夢むらく、象の頭の上に一りの金剛人あり、金剛の杵をもってあまねく六根に擬す。六根に擬しおわりなば、普賢菩薩、行者のために六根清浄懺悔の法を説かん。
 かくのごとく懺悔すること、一日より三七日にいたらん。諸仏現前三昧の力をもってのゆえに、普賢菩薩の説法荘厳のゆえに、耳、漸漸に障外の声を聞き、眼、漸漸に障外の事を見、鼻、漸漸に障外の香を聞がん。広く説くこと妙法華経のごとし。この六根清浄を得おわって、身心歓喜してもろもろの悪想なけん。
 心をこの法に純らにして法と相応せん。またさらに百千万億の旋陀羅尼を得、またさらに広く百千万億無量の諸仏を見たてまつらん。
 このもろもろの世尊 おのおの右の手を申べて、行者の頭を摩でてこの言を作したまわん、『善哉善哉、大乗を行ずる者、大荘厳の心を発せる者、大乗を念ずる者なり。我等むかし菩提心を発せしとき、皆また是のごとし。汝慇懃にして失わざれ。我等先世に大乗を行ぜしがゆえに、いま清浄正知の身となれり。汝いままたまさに勤修して懈らざるべし。
 この大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世のもろもろの如来を出生する種なり。この経を持つ者はすなわち仏身を持ち、すなわち仏事を行ずるなり。まさに知るべし、この人はすなわちこれ諸仏の所使なり。諸仏世尊の衣に覆われ、諸仏如来の真実の法の子なり。汝大乗を行じて法種を断たざれ。汝いま諦かに東方の諸仏を観じたてまつれ。』
 この語を説きたもうとき、行者すなわち東方の一切無量の世界を見る。地の平かなること掌のごとし。もろもろの堆阜・岳陵・荊棘なく、瑠璃をもって地とし、黄金をもって側を間てたり。十方世界もまたまた是のごとし。
 この事を見おわってすなわち宝樹を見ん。宝樹高妙にして五千由旬なり。その樹常に黄金・白銀を出して七宝荘厳せり。樹下に自然に宝の師子座あり。その師子座の高さ二千由旬ならん。
 その座の上にまた百宝の光明を出さん。かくのごとく諸樹および余の宝座、一一の宝座にみな百宝の光明あらん。かくのごとく諸樹および余の宝座、一一の宝座にみな自然の五百の白象あらん。象の上にみな普賢菩薩いまさん。
 そのときに行者もろもろの普賢を礼して、この言をなせ、『我れ何の罪あってか、ただ宝地・宝座および宝樹を見て、諸仏を見たてまつらざる』と。
 この語をなしおわりなば、一一の座の上に一りの世尊ましまさん。端厳微妙にして宝座に坐したまえり。諸仏を見たてまつりおわって心大いに歓喜して、またさらに大乗経典を誦習せん。
 大乗の力のゆえに、空中に声あって讃歎して言わく、『善哉善哉、善男子、汝大乗を行ずる功徳の因縁に、よく諸仏を見たてまつる』いま諸仏世尊を見たてまつることを得たりといえども、しかも釈迦牟尼仏・分身の諸仏および多宝仏塔を見たてまつること能わず。
 空中の声を聞きおわって、また勤めて大乗経典を誦習せん。大乗方等経を誦習するをもってのゆえに、すなわち夢中において釈迦牟尼仏、もろもろの大衆と耆闍崛山にましまして、法華経を説き一実の義を演べたもうを見ん。
 教えおわりなば懺悔し渇仰して見たてまつらんと欲し、合掌胡跪して耆闍崛山に向ってこの言をなせ。『如来世雄は常に世間にいます。我れを愍念したもうがゆえに我がために身を現じたまえ』
 この語を作しおわって耆闍崛山を見るに、七宝荘厳して無数の比丘・声聞・大衆あり。宝樹行列して宝地平正なり。また妙宝師子の座を敷けり。釈迦牟尼仏、眉間の光りを放ちたもう。その光りあまねく十方世界を照らし、また十方無量の世界を過ぐ。この光りの至るところの十方分身の釈迦牟尼仏、一時に雲のごとく集り、広く妙法を説きたもうこと妙法華経のごとし。
 一一の分身の仏、身は紫金の色なり。身量無辺にして師子の座に坐したまえり。百億無量の諸大菩薩をもって眷属とせり。一一の菩薩、行、普賢に同じ。かくのごとく十方無量の諸仏・菩薩の眷属もまたまた是のごとし。
 大衆雲集しおわって、釈迦牟尼仏を見たてまつれば、挙身の毛孔より金色の光りを放ちたもう。一一の光りの中に百億の化仏います。もろもろの分身の仏、眉間の白毫大人相の光りを放ちたもう。その光り、釈迦牟尼仏の頂に流入す。この相を見るときに、分身の諸仏、一切の毛孔より金色の光りを出したもう。一一の光りの中にまた恒河沙微塵数の化仏います。
 そのときに普賢菩薩、また眉間の大人相の光りを放って行者の心に入れん。すでに心に入りおわりなば、行者みずから過去無数百千の仏の所にして大乗経典を受持し読誦せしことを憶し、みずからもとの身を見ること了了分明ならん。
 宿明通のごとく等しくして異ることあることなけん。豁然として大悟し、旋陀羅尼・百千万億のもろもろの陀羅尼門を得ん。三昧より起って、まのあたり一切の分身の諸仏、もろもろの宝樹の下に師子の床に坐したまえるを見たてまつらん。また瑠璃の地の蓮華聚のごとく下方の空中より踊出するを見ん。
 一一の華の間に微塵数の菩薩あって結跏趺坐せん。また普賢の分身の菩薩、彼の衆の中にあって大乗を讃説するを見ん。
 ときにもろもろの菩薩、異口同音に行者をして六根を清浄ならしめん。
あるいは説言あらん、『汝まさに仏を念ずべし。』
あるいは説言あらん、『汝まさに法を念ずべし。』
あるいは説言あらん、『汝まさに僧を念ずべし。』
あるいは説言あらん。『汝まさに戒を念ずべし。』
あるいは説言あらん、『汝まさに施を念ずべし。』
あるいは説言あらん、『汝まさに天を念ずべし。』
 かくのごとき六法はこれ菩提心なり、菩薩を生ずる法なり。汝いままさに諸仏の前において、先の罪を発露し至誠に懺悔すべし。
 無量世において、眼根の因縁をもって諸色に貪著す。色に著するをもってのゆえに諸塵を貪愛す。塵を愛するをもってのゆえに女人の身を受けて、世世に生ずるところに諸色に惑著す。色、汝が眼を壊って恩愛の奴となる。ゆえに色、汝をして三界を経歴せしむ。この弊使をもって盲にして見るところなし。
 いま大乗方等経典を誦す。この経の中に十方の諸仏、色身滅せずと説く。汝いま見ることを得つ、審実にして爾りや不や。眼根不善、汝を傷害すること多し。我が語に随順して、諸仏・釈迦牟尼仏に帰向したてまつり、汝が眼根の所有の罪咎を説け。
 『諸仏・菩薩の慧眼の法水、願わくはもって洗除して、我れをして清浄ならしめたまえ』と。この語を作しおわって、あまねく十方の仏を礼し、釈迦牟尼仏・大乗経典に向いたてまつりて、またこの言を説け。
 『我がいま懺するところの眼根の重罪、障蔽穢濁にして盲にして見るところ無し。願わくは仏、大慈をもって哀愍覆護したまえ。普賢菩薩、大法船に乗って、あまねく一切の十方無量のもろもろの菩薩の伴を渡したもう。ただ願わくわは哀愍して、我が眼根の不善・悪業障を悔過する法を聴したまえ。』かくのごとく三たび説いて五体を地に投じて、大乗を正念して心に忘捨せざれ。これを眼根の罪を懺悔する法と名づく。
 諸仏の名を称し焼香・散華して、大乗の意を発し・旛・蓋を懸けて、眼の過患を説き、罪を懺悔せば、この人、現世に釈迦牟尼仏を見たてまつり、および分身・無量の諸仏を見たてまつり、阿僧祇劫に悪道に堕ちじ。大乗の力のゆえに、大乗の願のゆえに、つねに一切の陀羅尼菩薩と共に眷属とならん。この念をなす者、これを正念とす。もし他念する者を名づけて邪念とす。これを眼根初境界の相と名づく。
 眼根を浄むることおわって、またさらに大乗経典を読誦し、昼夜六時に胡跪し懺悔してこの言をなせ、『我れいまいかんぞただ釈迦牟尼仏・分身の諸仏を見たてまつりて、多宝仏の塔、全身の舎利を見たてまつらざる。多宝仏の塔は恒に在して滅したまわず。我れ濁悪の眼なり、このゆえに見たてまつらず。』この語を作しおわって、またさらに懺悔せよ。
 七日を過ぎおわって、多宝仏の塔、地より涌出したまわん。釈迦牟尼仏すなわち右の手をもってその塔の戸を開きたまわん。多宝仏を見たてまつれば普賢色身三昧に入りたまえり。一一の毛孔より恒河沙微塵数の光明を流出したもう。一一の光明に一一に百千万億の化仏います。この相現ずるとき、行者歓喜して讃偈をもって塔を遶らん。
 七匝を満ておわりなば、多宝如来大音声を出して、讃めてのたまわく、『法の子、汝いま真実によく大乗を行じ、普賢に随順して眼根懺悔す。この因縁をもって、我れ汝がもとに至って汝が証明となる』
 この語を説きおわって、讃めてのたまわく、『善哉善哉、釈迦牟尼仏、よく大法を説き、大法の雨を雨らして、濁悪のもろもろの衆生等を成就したもう。』
 このときに行者、多宝仏塔を見おわって、また普賢菩薩のもとに至って、合掌し敬礼してもうして言さく、『大師、我れに悔過を教えたまえ。』
 普賢また言わく、『汝、多劫の中において、耳根の因縁をもって外声を随逐して、妙音を聞くときは心に惑著を生じ。悪声を聞くときは百八種の煩悩の賊害を起こす。かくのごとき悪耳の報、悪事を得。つねに悪声を聞いてもろもろの攀縁を生ず。顛倒して聴くがゆえに、まさに悪道・辺地・邪見の、法を聞かざるところに堕すべし。
 汝、今日において、大乗の功徳海蔵を誦持す。この因縁をもってのゆえに、十方の仏を見たてまつる。多宝仏塔は現じて汝が証となりたもう。汝みずからまさに己が過悪を説いて諸罪を懺悔すべし。』
 このとき行者、この語を聞きおわって、またさらに合掌して五体を地に投じてこの言をなせ。『正知世尊、現じて我が証となりたまえ。方等経典はこれ慈悲の主なり。ただ願わくは我れを観、我が所説を聴きたまえ。我れ多劫よりないし今身まで、耳根の因縁をもって声を聞いて惑著すること、膠の草に著くがごとし。もろもろの悪声を聞くときは煩悩の毒を起こし、処処に惑著して暫くも停まるときなし。この弊声を出して我が識神を労し、三途に墜堕せしむ。いま始めて覚知して、もろもろの世尊に向いたてまつりて発露懺悔す』と。
 すでに懺悔しおわって、多宝仏の大光明を放ちたもうを見たてまつらん。その光り、金色にしてあまねく東方および十方界を照らしたもう。無量の諸仏、身真金の色なり。
 東方の空中にこの唱言をなす、ここに仏世尊まします、号を善徳という。また無数の分身の諸仏あり、宝樹下の師子座上に坐して結跏趺坐したまえり。
 このもろもろの世尊の一切みな普現色身三昧に入りたまえる、皆この言を作して、讃めてのたまわく、『善哉善哉、善男子、汝いま大乗経典を読誦す。汝が誦するところはこれ仏の境界なり。』
 この語を説きおわりなば、普賢菩薩またさらにために懺悔の法を説かん。『汝、先世無量劫の中において、香を貪るをもってのゆえに、分別諸識、処処に貪著して、生死に堕落せり。汝いままさに大乗の因を観ずべし。大乗の因とは諸法実相なり』と。
 この語を聞きおわって、五体を地に投じてまたさらに懺悔せよ。すでに懺悔しおわって、まさにこの語をなすべし、『南無釈迦牟尼仏・南無多宝仏塔・南無十方釈迦牟尼仏・分身諸仏』と。
 この語を作しおわって、あまねく十方の仏を礼したてまつれ、『南無東方善徳仏および分身諸仏』と。眼に見るところのごとくして一一に心をもって礼し、香華をもって供養し、供養することおわって胡跪し合掌して、種種の偈をもって諸仏を讃歎したてまつり、すでに讃歎しおわって、十悪業を説いて諸罪を懺悔せよ。
 すでに懺悔しおわってこの言をなせ、『我れ、先世無量劫のときにおいて、香・味・觸を貪って衆悪を造作せり。この因縁をもって無量世よりこのかた、つねに地獄・餓鬼・畜生・辺地・邪見のもろもろの不善の身を受く。かくのごとき悪業を今日発露し、諸仏正法の王に帰向したてまつりて説罪懺悔す』と。
 すでに懺悔しおわって身心懈らずして、またさらに大乗経典を読誦せよ。大乗の力のゆえに空中に声あって告げて言わく、『法の子、汝いままさに十方の仏に向いたてまつりて、大乗の法を讃説し、諸仏の前においてみずから己が過を説くべし。
 諸仏如来は、これ汝が慈父なり。汝まさにみずから舌根の所作の不善悪業を説くべし。この舌根は悪業の想いに動ぜられて、妄言・綺語・悪口・両舌・誹謗・妄語・邪見の語を讃歎し、無益の語を説く。かくのごとき衆多のもろもろの雑悪業、闘遘壊乱し法を非法と説く。かくのごとき衆罪を今ことごとく懺悔す』と。
 もろもろの世雄の前にしてこの語を作しおわって、五体を地に投じて、あまねく十方の仏を礼したてまつり、合掌長跪してまさにこの語をなすべし、『この舌の過患無量無辺なり。もろもろの悪業の刺は舌根より出ず。正法輪を断ずること、この舌より起こる。かくのごとき悪舌は功徳の種を断ず。非義の中において多端に強いて説き、邪見を讃歎すること、火に薪を益すがごとし。なお猛火の衆生を傷害するがごとし。毒を飲める者の瘡疣なくして死するがごとし。かくのごとき罪報、悪邪不善にして、まさに悪道に堕すること百劫・千劫なるべし。妄語をもってのゆえに大地獄に堕す。我れいま南方の諸仏に帰向したてまつりて、過罪を発露せん』
 この念を作すとき、空中に声あらん。『南方に仏います。栴檀徳と名づけたてまつる。彼の仏にまた無量の分身います。一切の諸仏みな大乗を説いて罪悪を除滅したもう。かくのごとき衆罪を、いま十方無量の諸仏・大悲世尊に向いたてまつりて、黒悪を発露し誠心に懺悔せよ。』この語を説きおわりなば、五体を地に投じてまた諸仏を礼したてまつれ。
 このときに諸仏、また光明を放って行者の身を照らして、その身心をして自然に歓喜せしめ、大慈悲を発し、あまねく一切を念ぜしめん。そのときに諸仏、広く行者のために、大慈悲および喜捨の法を説き、また愛語を教え六和敬を修せしめん。そのときに行者、この教勅を聞きおわって心大いに歓喜して、またさらに誦習して終に懈息せざらん。
 空中にまた微妙の音声あって、かくのごとき言を出さん、
『汝いままさに身心に懺悔すべし』
 身とは殺・盗・婬、心とはもろもろの不善を念ずる、十悪業および五無間を造ること、なお猿猴のごとく、また黐膠のごとく、処処に貪著してあまねく一切六情根の中に至る。
 この六根の業、枝・條・華・葉、ことごとく三界・二十五有・一切の生処に満てり。またよく無明・老・死・十二の苦事を増長す。八邪・八難中に経ざることなし。汝いままさにかくのごとき悪不善の業を懺悔すべし。」
 そのときに行者、この語を聞きおわって、空中の声に問いたてまつる、『我れいま何れの処にしてか懺悔の法を行ぜん』と。
 ときに空中の声すなわちこの語を説かん、『釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。その仏の住処を常寂光と名づく。常波羅蜜に摂成せられたるところ、我波羅蜜に安立せられたるところ、浄波羅蜜の有相を滅せるところ、楽波羅蜜の身心の相に住せざるところ。有無の諸法の相を見ざるところ、如寂解脱・ないし般若波羅蜜なり。この色常住の法なるがゆえに。かくのごとくまさに十方の仏を観じたてまつるべし。』
 ときに十方の仏、おのおの右の手を申べて行者の頭を摩でて、かくのごとき言を作したまわん、『善哉善哉、善男子、汝いま大乗経を読誦するがゆえに、十方の諸仏懺悔の法を説きたもう。菩薩の所行は結使を断ぜず使海に住せず。心を観ずるに心なし、顛倒の想いより起こる。かくのごとき相の心は妄想より起こる。空中の風の依止する処なきがごとし。かくのごとき法相は生ぜず没せず。何者かこれ罪、何者かこれ福、我が心おのずから空なれば罪・福も主なし。一切の法はかくのごとく住なく壊なし。かくのごとき懺悔は心を観るに心なし。法も法の中に住せず。諸法は解脱なり、滅諦なり、寂静なり。かくのごとき相をば大懺悔と名づけ、大荘厳懺悔と名づけ、無罪相懺悔と名づけ。破壊心識と名づく。この懺悔を行ずる者は、身心清浄にして法の中に住せざること、なお流水のごとし。念念の中に普賢菩薩および十方の仏を見たてまつることを得ん。』
 ときにもろもろの世尊、大悲光明をもって行者のために無相の法を説きたもう。行者、第一義空を説きたもうを聞きたてまつらん。行者聞きおわって心驚怖せず。ときに応じてすなわち菩薩の正位に入らん。」
 仏、阿難に告げたまわく、
「かくのごとく行ずるをば名づけて懺悔とす。この懺悔とは十方の諸仏・諸大菩薩の所行の懺悔の法なり。」
 仏、阿難に告げたまわく、
「仏の滅度の後、仏のもろもろの弟子、もし悪不善業を懺悔することあらば、ただまさに大乗経典を読誦すべし。この方等経はこれ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり。
 仏の三種の身は方等より生ず。これ大法印なり、涅槃海を印す。かくのごとき海中よりよく三種の仏の清浄の身を生ず。この三種の身は人・天の福田・応供の中の最なり。
 それ大乗方経等典を誦読することあらば、まさに知るべし、この人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧より生ずるなり。」
 そのときに世尊、しかも偈を説いて言わく、
「もし眼根の悪あって 業障の眼不浄ならば ただまさに大乗を誦し 第一義を思念すべし これを眼を懺悔して もろもろの不善業を盡くすと名づく 
 耳根は乱声を聞いて 和合の義を壊乱す これによって狂心を起こすこと なお痴なる猿猴のごとし ただまさに大乗を誦し 法の空無相を観ずべし ながく一切の悪を盡くして 天耳をもって十方を聞かん 
 鼻根は諸香に著して 染に随ってもろもろの触を起こす かくのごとき狂惑の鼻 染に随って諸塵を生ず もし大乗経を誦し 法の如実際を観ぜば ながくもろもろの悪業を離れて 後世にまた生ぜじ
 舌根は五種の 悪口の不善業を起こす もしみずから調順せんと欲せば 勤めて慈悲を修し 法の真寂の義を思うて もろもろの分別の想いなかるべし 
 心根は猿猴のごとくにして 暫くも停まるときあることなし もし折伏せんと欲せば まさに勤めて大乗を誦し 仏の大覚身・力・無畏の所成を念じたてまつるべし 
 身はこれ機関の主 塵の風に随って転ずるがごとし 六賊、中に遊戯して 自在にして碍なし もしこの悪を滅して 永くもろもろの塵労を離れ 常に涅槃の城に処し 安楽にして心憺怕ならんと欲せば まさに大乗経を誦して もろもろの菩薩の母を念ずべし 無量の勝方便は 実相を思うによって得 かくのごときらの六法を名づけて六情根とす
 一切の業障海は みな妄想より生ず もし懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露のごとし 慧日よく消除す このゆえに至心に 六情根を懺悔すべし」
 この偈を説きおわって、仏、阿難に告げたまわく、
「汝いまこの六根を懺悔し、普賢菩薩を観ずる法を持って、あまねく十方の諸天・世人のために廣く分別して説け。
 仏の滅度の後、仏のもろもろの弟子、もし方等経典を受持し、読誦し、解説することあらば、静処のもしは塚間、もしは樹下・阿練若処において、方等を読誦し大乗の義を思うべし。
 念力強きがゆえに、我が身および多宝仏塔・十方分身の無量の諸仏・普賢菩薩・文殊師利菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩を見たてまつることを得ん。
 法を恭敬するがゆえに、もろもろの妙華を持って空中に住立して、行持法の者を讃歎し恭敬せん。ただ大乗方等経を誦するがゆえに、諸仏・菩薩、昼夜にこの持法の者を供養したまわん。」
 仏、阿難に告げたまわく、
「我れ賢劫のもろもろの菩薩および十方の仏と、大乗真実の義を思うに因るがゆえに、百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却しき。この勝妙の懺悔の法に因るがゆえに、いま十方において、おのおの仏となることを得たり。
 もし疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜんと欲せん者、もし現身に十方の仏および普賢菩薩を見んと欲せば、まさに浄く澡浴して浄潔の衣を著、もろもろの名香を焼き、空閑のところに在るべし。まさに大乗経典を読誦し大乗の義を思うべし。」
 仏、阿難に告げたまわく、
「もし衆生あって、普賢菩薩を観ぜんと欲せん者は、まさにこの観をなすべし。この観をなす者、これを正観と名づく。もし他観する者、これを邪観と名づく。
 仏の滅度の後、仏のもろもろの弟子、仏の語に随順して懺悔を行ぜん者は、まさに知るべし、この人は普賢の行を行ずるなり。普賢の行を行ぜん者は、悪相および悪業報を見じ。
 それ衆生あって、昼夜六時に十方の仏を礼したてまつり、大乗経を誦し、第一義甚深の空法を思わば、一弾指の頃に百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却せん。
 この行を行ずる者は真にこれ仏子なり。諸仏より生ず。十方の諸仏およびもろもろの菩薩、その和上となりたまわん。これを菩薩戒を具足せる者と名づく。羯磨を須いずして自然に成就し、一切人・天の供養を受くべし。
 そのときに行者、もし菩薩戒を具足せんと欲せば、まさに合掌して、空閑のところに在ってあまねく十方の仏を礼したてまつり、諸罪を懺悔し、みずから己が過を説くべし。
 しこうして後に静かなる処にして、十方の仏にもうして、この言をなせ、『諸仏世尊は常に世に住在したもう。我れ業障のゆえに方等を信ずといえども仏を見たてまつること了かならず。
 いま仏に帰依したてまつる。ただ願わくは釈迦牟尼仏正知世尊、我が和上となりたまえ。文殊師利具大悲者、願わくは智慧をもって我れに清浄のもろもろの菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日、我れを憐愍するがゆえに、また我が菩薩法を受くることを聴したもうべし。
 十方の諸仏、現じて我が証となりたまえ。諸大菩薩おのおのその名を称して、この勝大士、衆生を覆護し我れらを助護したまえ。今日、方等経典を受持したてまつる、ないし失命し設い地獄に堕ちて無量の苦を受くとも、終に諸仏の正法を毀謗せじ。
 この因縁・功徳力をもってのゆえに、いま釈迦牟尼仏、我が和上となりたまえ。文殊師利、我が阿闍梨となりたまえ。当来の弥勒、願わくは我れに法を授けたまえ。十方の諸仏、願わくは我れを証知したまえ。大徳のもろもろの菩薩、願わくは我が伴となりたまえ。
 我れいま大乗経典甚深の妙義によって仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依す』と、かくのごとく三たび説け。三宝に帰依したてまつることおわって、次にまさにみずから誓って六重の法を受くべし。六重の法を受けおわって、次にまさに勤めて無碍の梵行を修し、曠済の心を発し八重の法を受くべし。
 この誓いを立ておわって、空閑のところにおいて、もろもろの名香を焼き、華を散じ、一切の諸仏およびもろもろの菩薩・大乗方等に供養したてまつりて、この言をなせ、『我れ今日において菩提心を発しつ、この功徳をもってあまねく一切を度せん。』
 この語を作しおわって、またさらに一切の諸仏およびもろもろの菩薩を頂礼し、方等の義を思え。一日ないし三七日、もしは出家・在家にても、和上を須いず、諸師を用いず白羯磨せざれども、大乗経典を受持し読誦する力のゆえに、普賢菩薩の助発行のゆえに、これ十方の諸仏の正法の眼目なれば、この法によって自然に五分法身・戒・定・慧・解脱・解脱知見を成就す。諸仏如来はこの法より生じ、大乗経において記別を受くることを得たまえり。
 このゆえに智者、もし声聞の、三帰および五戒・八戒・比丘戒・比丘尼戒・沙彌戒・沙彌尼戒・式叉摩尼戒およびもろもろの威儀を毀破し、愚痴・不善・悪邪心のゆえに、多くもろもろの戒および威儀の法を犯さん。もし除滅して過患なからしめ、還って比丘となって沙門の法を具せんと欲せば、まさに勤修して方等経典を読み、第一義甚深の空法を思うて、この空慧をして心と相応せしむべし。まさに知るべし。この人は念念の頃において、一切の罪垢ながく盡きて余りなけん。これを沙門の法戒を具足しもろもろの威儀を具すと名づく。まさに人・天一切の供養を受くべし。
 もし優婆塞、もろもろの威儀を犯し不善の事をなさん。不善の事をなすとは、いわゆる仏法の過悪を説き、四衆の所犯の悪事を論説し、偸盗・婬嫉にして慚愧あることなきなり。もし懺悔して諸罪を滅せんと欲せば、まさに勤めて方等経典を読誦し第一義を思うべし。
 もし王者・大臣・婆羅門・居士・長者・宰官、この諸人等、貪求して厭くことなく、五逆罪を作り、方等経を謗し、十悪業を具せらん。この大悪報、悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定してまさに阿鼻地獄に堕つべし。もしこの業障を滅除せんと欲せば、慚愧を生じて諸罪を改悔すべし。」
 仏の言わく、
「いかなるをか刹利・居士の懺悔の法と名づくる。刹利・居士の懺悔の法とは、ただまさに正心にして三宝を謗せず、出家を障えず、梵行人のために悪留難をなさざるべし。まさに繋念して六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供給し供養し、かならず礼拝すべし。まさに甚深の経法・第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔を修すと名づく。
 第二の懺悔とは、父母に孝養し、師長を恭敬する、これを第二の懺悔の法を修すと名づく。
 第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉せざる、これを第三の懺悔を修すと名づく。
 第四の懺悔とは、六齋日において、もろもろの境内に勅して、力のおよぶところの処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する、これを第四の懺悔を修すと名づく。
 第五の懺悔とは、ただまさに深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」
 仏、阿難に告げたまわく、
「未来世において、もしかくのごとき懺悔の法を修習することあらんとき、まさに知るべし、この人は慚愧の服を著、諸仏に護助せられ、久しからずしてまさに阿耨多羅三藐三菩提を成ずべし。」この語を説きたもうとき、十千の天子は法眼浄を得、弥勒菩薩等の諸大菩薩および阿難は、仏の所説を聞きたてまつりて歓喜し奉行しき」